北海道大学/大学院教育学研究院/教育学部
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在学生の声

本当に興味のあることを探す期間

(教育史・比較教育 國井 聡史)
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北大の教育学部では、2年生になると皆それぞれ「基礎ゼミ」に所属して学習を進めます。この「基礎ゼミ」とは、自分が教育学部で学びたいことをはっきりさせ、3年次に所属するゼミを決めるための授業で、前期には4つの「系」のうちから1つを選択し、後期には19の「ゼミ」の中から1つ(2つ、3つを選択する人も中にはいます)を選択して(「系」と「ゼミ」についてはこちらを参照してください)、3年生になってから自分が研究していくことを考えるのです。

僕は大学に入ったころから教員志望で、「教育方法学」のゼミに進むつもりだったので、前期の基礎ゼミでは「基礎論系」を選択しました。ところが、そのとき基礎ゼミを担当してくれた先生が「教育史」の先生だったのです。高校まで歴史が嫌いだった僕は、内心不服でしたが、この基礎ゼミで学んだ教育の歴史は、これから教育者になろうとしている僕にとっては、とても新鮮で驚くことばかりで、これ以来僕は「教育史」というものに興味を持つようになりました。

高校までの歴史の授業は、年号と、そのときにあった出来事をただひたすら暗記していく、といったもので、暗記の苦手な僕には正直言って「つまらない」ものでした。しかし、教育学部で学ぶ「歴史」は、現在行われていることについて「なぜ?」と問いを立て、自分自身で調べることで疑問を解き明かしていくので、過去と現在のつながりや、過去にあったことが現在にどのように生かされているかも見えてきて、「面白い」と感じることができています。

今僕は、日本国歌「君が代」の歴史について調べています。現在、入学式や卒業式などの学校行事の中で歌わなければならないとされているにもかかわらず、「君が代」を歌うことや伴奏をすることを拒否する教員がいる、ということをニュースなどで知り、なぜそのような問題が起きているのか、という疑問から、「君が代」が成立した過程や、国歌とされた過程について調べたいと思ったからです。先行研究も多く、たくさんの本を読みながら歴史的な事実をつかんでいくのは大変な作業ですが、やりがいがあり、「面白い」と感じることができています。

このように、現在のあることがらについて「なぜ?」と考えることから、その歴史について学ぶという視点は、今思えば2年生前期の「基礎ゼミ」がなければ、興味を持つことも、得ることもできなかった視点だと思います。北大の教育学部に、「自分が本当に興味があることは何なのか」を見つめ直せる期間があって、良かったと思っています。

身体を育てる方法を学ぶ

(体育方法 牛田 千尋)
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体育方法と聞くと、何を思い浮かべますか。私は、体育教師になることが夢でしたので、体育授業を上手に行う方法、色々な運動を指導できる方法について学ぶゼミだと考え、このゼミを選択しました。確かに体育方法ゼミでは、「知識と技術が無ければ教師は実践できない」といった考え方から、それらの方法についても学びました。このとき、現場中心のゼミなので、学習成果を高めた体育教師に共通して認められた教材編成の方法、教授活動の方法、学習集団の組織化の方法等の技術を演習で学び、学校教育現場で半年間アシスタント教師として活動する中で、体育教師になるための基盤づくりを行いました。しかしそれ以上に、学部の体育方法ゼミでは「身体を育てる方法」を学ぶ場であったと、ゼミ生活を振り返って感じました。

 私は、自分の生活リズムをコントロールすることが苦手だったため、「4月から社会人になるんだぞ。社会では自分の失敗が他の人の責任に繋がってしまうんだぞ」「教師はプロ(専門職)だぞ。プロは、まず当たり前のことが当たり前にできることが大切だから、自分で自分の弱い心をコントロールしないと駄目だよ」と先生から怒られ続けました。
そこで私は、「朝9時から研究室の掃除を行い、それから勉強するといった生活リズムを1年間続けること」「報告―連絡―相談をすること」の2つをゼミの先生と約束し、頑張りました。実際には、出来ない時もあり、その都度ゼミの先生に怒られ泣いてしまうの繰り返しでした。とくに、卒業論文を書き上げるときには、朝方4時までデータ整理や論文等を読み、9時からゼミといった生活で、人生で最も苦しい時間を過ごしたと言い切れるぐらい厳しい日々でした。しかし、卒論テーマも「女性教師のキャリア発達」に関する研究だったので、私は社会人女性が仕事と主婦の2つの身体を形成していく必要性とその大変さを学ぶに連れて、今のゼミ生活をしっかりやり切ることが社会に出たときにきっと役に立つと考えました。そして、卒業論文を自力でやり切ることができました。
 こうしたゼミでの経験から私は、大きなものを得ました。それは、何事にも我慢できる忍耐力です。今では、忍耐力なら他の人には負けないぞといった自信がありますし、忍耐力が私の身体を育ててくれる一つの方法だと思っています。皆さんも、教育学部で人生の糧となる経験ができることを心から祈っています。

体験する自分を体感する

(教育臨床心理学 髙橋 由衣)
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カウンセリング実習は、臨床面接法の基礎にかかわる文献精読から始まりました。このように言うと、「講義形式の授業と同じじゃん!」と思われてしまうかもしれませんが、実習や演習という名のつく授業で行う精読は、国語の授業のような読み合わせではなく、内容に関する討議となります。「これはどういう意味?」「この言葉は何を示唆しているの?」という疑問を発し、それに対する自らの意見を発すること、これらは立派な実習のひとつです。
 文献精読が終わると、だんだんと頭と身体を使った実習が増えていきます。私たちはまず、一方が”最近楽しかったこと”などを5分間話し、一方は『嫌な聴き方』や『嬉しい聴き方』を意識してそれを聴くという実習を行いました。足を組んでみたり、頷きながら相槌を打ったりしているうちに、話をよく聴くということは、身体のあらゆる部位を使って行われているということに気づきます。
 次に行った実習は性格検査でした。臨床場面では心理検査を行い、その結果を道具として用いてカウンセリングを進めていくことが少なくありません。私たちは、中学生を想定し性格検査を実際に受け、それをもとに「あなたはこのような人だと解釈し、困っていることを改善するこのような方法を考えました」というレポートを書きました。つまり、自分を分析したのです。この体験は私にとって大きなインパクトを残しました。いい意味でも、悪い意味でも…。だからこそ、検査によってわかることが限られているということや、きちんとその結果を間に置いて話し合うことが必要だということを、身をもって感じられたのだと思います。
 もっと身体を使った実習としては、学内を目隠しして歩くブラインドウォークや、心と身体の力を抜くための身体ほぐしなどが挙げられます。さらに、学校というフィールドを飛び出し、実際に当事者の方々と接する関わり合いの中から学ぶという実習も行いました。
 これらの実習で学ぶべきことは何かと問われたとすれば、自分の動きに敏感になることではないかと思います。知識や概念だけではなく、それを受け止める自分を見つめることで、当事者に近い状態で学べるのではないかと思うからです。口では言えても、自分を見つめることは容易くありません。しかし、だからこそ、この実習に大きな意義があるのではないかと思います。

身近な現場を調査する

(教育福祉論 高橋 実花)
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私は、大学3年生の前期に社会福祉調査実習を履修しました。内容は、4〜5人で1つのグループを作り、グループで調査テーマを決めフィールドワークをするといったものです。今年は札幌市内の保育園や学童保育に訪問し、調査を行いました。私たちのグループは、ある保育園に定期的に訪問し、見学や子どもたちとの関わりを通し園の雰囲気を知った上で調査テーマを「保育観の形」に決め、保育士6名と園長先生に1人1時間程度のインタビューを行いました。
 「保育園」とは馴染みのあることばですが、イメージと実際に現場に行き感じることは大きく違います。私は、この実習を「保育園に行き、子どもと遊べるなんて楽しそう」と軽い気持ちで受講しました。しかし、実際に現場に行くことで保育園について今まで知らなかったことや、あまりにも当たり前で見過ごしていたことを多く発見しました。私たちのグループが「保育観の形成」をテーマにした理由は、保育園を見学した際に子どもたちと関わる保育士を見て、どのように子ど もと関わる力をつけてきたのだろうかと素朴な疑問を持ったからです。
 インタビューは普段出会う機会がない人のお話を聞くことができたため楽しかったのですが、インタビューの文字起こしや分析には時間がかかりました。1人分のインタビューの内容をまとめることは予想以上に大変な上、初めての調査実習だったので右も左も分からない状態でした。しかし、グループ内で話し合いを重ね、先生に添削を繰り返しして頂くことで調査の方向性が見え、自分たちが何を考えていて、何を伝えたいかが明確になりました。
 この授業の一番の魅力は、現場と研究を繋ぐ活動ができることです。学生の立場で現場の人と接することは重要な機会です。また、現場であったことを肌で感じるだけでなく、調査をとことんできるのもこの授業ならではの魅力です。基本的に調査は学生が主体となって行うため、調査方法や内容、インタビューの仕方やまとめ方等、多くのことで試行錯誤しました。しかし、絶えず試行錯誤をして自分たちなりのやり方を模索したからこそチームワークが磨かれ、文章をまとめる力や考える力、現場の人と向き合う能力が身につきました。また、行き詰った際はグループのメンバーや先生方のサポートを受けることができ、調査を通して人の温かさやありがたみに触れることができました。この講義で得た能力を、今後の学生生活にも活かしていきたいと思います。

知り、感じ、そして表現すること。

(産業教育 佐藤 良太)
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私は北海道大学英語研究会(English Speaking Society / E.S.S)というサークルに所属しており、活動の一環として英語スピーチ大会に出場してきました。ESSの英語スピーチでは、社会問題について調べ、その解決策を考え、プレゼンテーションすることが求められます。
 例えば7分間スピーチを行った後、4分間の質疑応答を行う大会があります。下調べが甘いとステージ上で何も言えず、とても恥ずかしい思いをします。即興スピーチが課される大会では会場でテーマが与えられ、4分間の準備時間を経てすぐにスピーチをしなければなりません。例えば”Information and Technology” や”AgingSociety”、テーマの入った封筒を開け、”AKB48″と書いてあるのを見て呆然としたこともありました。
4年間のサークル活動を通して、市内大会、全道大会、そして最後には全国大会で優勝することが出来たのですが、その背景には北大教育学部で培った知識や経験がありました。もし教育学部に入っていなかったら、ここまで活躍することは無かったかもしれません。
 北大教育学部には様々な分野に精通した先生方がいます。専門科目は2年生から始まるのですが、心理学、貧困問題、在日外国人を取り巻く問題、労働問題などいろんなことを勉強し、「知る」ことが出来ます。
教室で学ぶだけではなく、外に飛び出して勉強したこともありました。障がい者の方々が生活する施設を見学したことは今でも鮮明に思い出せます。札幌に住むギタリストと共に行動し、ギタリストがどのように働いているのか調べたこともありました。実際に起きていることを「感じる」ことが出来たのです。
知識や経験は人に伝えられることで初めて価値を持つものだと思います。私は教育学部で学んだ様々なテーマでスピーチをしてきましたが、最後にぶつかるのは「表現」するという壁です。どんなアイデアを持っていても、それが支離滅裂では誰にも伝わりません。
 大学生は高校生と違って日々「レポート」を課されます。大学に入りたての頃のレポートを今見返すと、自分でも何を言ってるか分からないものばかりです。しかし卒業前には1本の論文を書き上げることが出来るようになるのです。
 私は3年生の時に「第40回札幌・ポートランド姉妹都市提携記念英語弁論大会」というスピーチ大会で優勝、卒業直前には「第16回東洋英和女学院大学英語弁論大会 水上僚子杯」で優勝し、全国制覇を果たしました。北大教育学部 で「知り」、「感じ」そして「表現」したことが全国で高く評価されたことを誇りに思います。そして次は「東大杯」というもっと大きな大会で優勝することを目標に学び続けていきたいと思います。

今までの勉強と卒業論文の違い

(体力科学 近藤 悠)
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卒業論文は、国語、数学…といったみんな同じことをする今までの勉強とは違い、各人特有の勉強科目だと思います。私は卒業論文で自分の好きなことを勉強し、今までの勉強では得られなかった貴重な経験、知識を得ることができました。
 私は北大ジャズ研究会に入り、大学からジャズピアノを弾き始めました。”ジャズ”という音楽は、傍目からはおじさん達の古臭い音楽、と思われているかもしれませんが、今も果敢に進化し続ける前衛的な音楽です。即興で自由に、自分の思うまま演奏する姿勢に魅かれ私はジャズピアノを弾き始めました。
一方、卒業論文ではテーマを決めるのに大苦戦…

 私は体育系のゼミに入り体育系に即したテーマを決めようとしていましたが、なかなか上手くいきませんでした。しかし、自分のやりたいことをやれ、というゼミの先生の方針を受けて、「じゃあ音楽について書けばいいんだ!」と吹っ切れました。音楽を卒業論文の研究に引きつけて考え出したテーマが、音楽の拍子の違いでストレスの回復に与える効果が変わるのではないか、というものでした。こんなテーマ設定でいいのかな?とも思いましたが、こんな奇抜なテーマで研究できるのも教育学部ならではなんだな、と思います。そして、このように自分の興味関心がある分野の勉強をできるということが、小学校、中学校、高校までとの大きな違いの一つだと思います。
 卒業論文の執筆活動は、先例の少ない研究であったため困難の連続でした。しかし、自分のやりたいことをやれることのできる楽しさと、周りの人の助けによりなんとか書き上げることができました。
高校までの勉強はみんな同じことをしてきましたが、大学の卒業論文は一人一人違う勉強をします。今までの勉強とは違い、一つ一つ自分の力で書きあげていかなければなりませんが、様々な角度から問題を考え、自力で解決を見つけ出し、書きあげていく卒業論文の執筆活動は今までにない学びの場であり、大学生活の中で大きく成長できるとてもいい機会となりました。
 私は卒業論文の執筆活動を通して、自分の好きなことをやる楽しさ、難しさを感じ、自分の力で問題解決をしていく力を身につけることができたと思います。

学ぶ喜びを探求する日々

(教育方法ゼミ)

 2008年4月、私は北海道大学教育学部に編入生として入学しました。
以前通っていた大学では、教育社会学ゼミナールに所属していましたが、大学が単科大学であることからの研究の限界や、他の教育学への興味もあり、より広く、より深く教育を学べる環境である北海道大学教育学部に着目したことが、最初の志望動機でした。
 数多くあるゼミの中で、私が最も興味を覚えたゼミが教育方法学ゼミでした。子どもが科学的知識を強制的に学ばされるのではなく、いかに自発的に、いかに楽しく吸収するか、教師や教材がいかに子どもの知的欲求を促すかという、現代の教育においても非常に困難な課題に取り組んでいたからです。
私自信も、子どもがより豊かに学習を行うにはどうすればいいのかを悩んでいる一人であり、その答えは未だに見えているとは言い難いものがあります。
この悩みを解決するために、私は教育方法学ゼミへ所属することを決めました。
 教育方法学ゼミに所属した後、私が学んだことは、先人たちによる膨大な量の授業実践や教育内容構成でした。

 これらの過去の研究の補完や、新たな研究分野の開拓などにおいても、教育方法の研究には他に見られない独特の奥深さがあります。子どもが、どのように学習することにより、豊かな科学的知識を得ることができるのか。大人になってしまった私たちには、その仕組みを完全に理解することはできないのかもしれません。しかし、だからこそ、様々なアプローチが存在し、この教育方法学という研究を独特で奥深いものにしているように思えてなりません。
 子どもに対し、知的欲求を促すための研究を行っていく上で、私自身も日々の新しい発見に「学ぶ」喜びを見出さずにはいられません。このような喜びを得る機会を与えてくれた北海道大学の教育学部への編入や、そして教育方法学ゼミナールへの所属は、私にとって今後の人生にとって大きな財産となる予感を感じずにはいられません。 

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